自分語りです。赤裸々です。
本日長男六歳(昨日誕生日)にランドセルを買い与えた(おばあちゃん出資)のですが、
その成長への感慨深さと共に、何となく自分の過去を振り返りました。
そういえば何で自分はギター基準で物事を判断するようになったのか、です。
高校生の頃からギターに触れて嗜んではいたのですが、いまだ事ある毎にそれに対する考え方やモチベーションのコントロールというものをギター基準にしています。寄る辺にしてます。
まあ主義・思想・宗教の部類ですね。
ある対象を実現するのにどんだけ頑張る必要があるのか、どれだけ手を抜いていいのか、どれくらいの想いが必要なのか、それに対して自分がどこまで出来るのか、出来ないのか、ということをギターをモノサシにして考えている訳です。
いろいろあって上京し、その後いろいろあって、いろいろな人にギターを師事していたのですが、そのはじめの師匠に学んだことが非常に大きかったです。大きく分けるとふたつあります。
①:感性での表現かと思っていたものを、体系的、定量的に学んだ
上京するまで、地方都市でちまちまとギターを弾いており、その狭い世界で『オレスゲー』とかなってました。
これについては恥じ入るつもりはないです。大体みんなそうだからです。均されてますから。
特定の才能があれば突出しますが、死ぬ気になればまくれるレベル、神の視点()から俯瞰すると、ドングリの背比べなのです。
それまではテキトーになんとなーくこなせば、それなりの表現はできると思っていたのを『音楽理論』の習得でヘシ折られました。
『音楽』っていうと芸術であり感性で表現するものであり、っていう、ある側面『甘え』があるという認識を深層で抱いていました。
『理論』とかそーゆーメソッドで枠にハメられるというのに抵抗感があるのは、特にロック畑の人はそうでしょう。
でも、フレーム化されることによって、さまざまなことが最適化できる、関わる人にうまく説明できる、伝えられるということを超学びました。
定量的にコントロールできるものを下地にし、『その上で』定性的な、いわゆるセンスや想いが生きるのだという解釈に至りました。
②:感性での表現かと思っていたものを、体系的、定量的に学んだ
①とおんなじタイトルです。反証なのです。
音楽理論の価値を知り、学べば学ぶほど自分の中の『音楽』という表現手段が熟成することを感じていました。
すなわち、この方向性は間違っておらず、理論を習得することで人間はスゲー事になる、という確信です。
なので楽器の習熟と同時進行で理論の勉強をし、それなりに音楽の姿が見えてホクホクしてたところで師匠に呼び出されます。
『オマエ、音楽理論の勉強すげーしてるけど、なんでか判るか?』
『わかりません。でも、理論って便利だし楽しいですよね』
『理論を学ぶ理由、それはな……オマエに音楽の才能が無いからだよ』
『……!』
『才能あって、デキる奴ははじめっから出来るんだよ。理論ってのは才能が無いやつの道具なんだよ』
という感じの会話がありました。愛あるダメ出し。
電撃が走りました。当時ハマっていた『さそうあきら』の『犬・犬・犬』に似た表現があって、超腹落ちしました。
『理論というのは、現象があってそれを後付で体系化したもの』って感じだったと思います。
個々の人間がもつ能力、時間、リソースには限りがあり、それを最適化して活用するには理論なりなんなりの『道具』なしでは敵わない、と思った次第です。先人の知恵が詰まったバイブルが有効かと。
なので、思い通りの行動をして、良くも悪くもその結果を『後付け』で体系化し、後に活かして行くというのが、才能なきもののあるべき姿と思っている次第です。
失敗をたくさんして、逆説的に勝ちパターンを掘り出すというレオナルド・ダ・ヴィンチっぽい手法もアリかと考えました。
まとめます。
先人の知恵とゆー理論を持ってして、ギターやその他生活を便利にできているのですが、私より後から生まれる人からすると、良かれ悪しかれ私自身もその「先人」に該当しちゃいます。
本日長男の姿を見て、いろいろ試した上でいろいろ有効な何かを遺すべきかと感じたわけです。
おわり